令和7年1月14日
津山市の新善光寺さまに
おまいりしました。
令和7年。まだ八十八ヶ所も半分くらい残したまま、中途半端になっていた霊場めぐりを再開することにした。言い訳はたくさんあるが、家族から「何か一つくらいは成し遂げてみたら」と耳に痛いことを言われた。自分でも何もかも中途半端な自分がとても嫌だったが、何だかんだ言い訳をしながらここまできた。やめ癖逃げ癖から脱出しないと、、、自分の行動で誇れるものを探している感じだ。
さて、
新善光寺さまにおまいりするのは、今回で5回目くらいだ。
我が家から近すぎず遠すぎず、手入れの行き届いたお寺の中はまるで別世界のようだ。うれしいことに、今日は天気予報では曇りとあったが、見事に快晴、空がきれいだ。

今日の目的は新善光寺さまの四国八十八ヶ所霊場をおまいりすること。
本堂や蓮池(この時期は蓮はない)を左右に、裏山に上がる。
まず目に入るのが小さな祠、金毘羅大権現さまだ。

八十八ヶ所小さな祠が裏山に約3メートルぐらいの間隔で祀ってある、その祠をひとつひとつ巡るのだが、多分、私のおおよその感覚だけど総延長は2〜3キロはあるのではないか。
歩きやすく藪漕ぎがされている細道を参道と言うのなら、かなり歩きやすい参道になっている

日の当たるところ、日陰、枯葉が集まっているところ、さまざまな様子で参道は続く。

順番に回れているのだろうか、逆打ちになってるんじゃないか、さまざまな思いがあるが、
結局、自分なりに順番でも、逆でも良いじゃないかと結論を出し、ただひたすら回る回る。
私は観音さまが好きなのだか、七面観音、千手観音など石に彫られた観音さまが浮き出ているようだった。殊に千手観音像は、高さ1メートル弱の石にさすがに千のてを彫っているわけではなく簡易なものだったが、数本の御手が描かれ力強く彫られていた。

あまりの数の多さに、また不安がおそってくる。
結願の88番札所の祠はどこなんだろう。
札所とお寺の名前を記したものが見えないところもある。
あちこち行き来したのも後半になってから、、、ちゃんとやりたい気持ちがあったからなんだろうなあ。それも自分勝手な欲だなあと勝手に良きに解釈してひたすら回る、拝む、こうべを垂れる。歩く歩く。結局、順番に回れたのか飛び飛びだったのか、全制覇したのか、残ってしまったのか、定かではないが、本堂付近に戻ってきた。

少しホッとした。
出口が見えた。
人はトンネルの出口が見えるとホッとするのだろう。
トンネルとは自分の中の悩みや意地悪な心、邪な心。
ちょっとだけ、そこから抜け出す安堵感を見つけたような気がした。
お大師さまにお礼を言って、お寺を後にする、山門をくぐる。
集落に向かっていると右手の山に70番代の祠が見えた。。。まだある。
見えるところは走っていって手を合わせた。。。
まだどこかにあったのかもしれない。
でも,
今日お参りして、心が洗われたので良いのだ、良いことにする。
御朱印帳を持ってこなかったので、心の中に印を押しておく。
金森山 新善光寺
津山市中村393
ご本尊は
阿弥陀如来(おん ありみた ていせい からうん)
御詠歌は
ぜんこうじ あらたにうつす かなもりの やまにかがやく みだのみょうじょう
ライティング/武本真寿子
著作・編集
